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「座談会を終えて」(「リテラ・ポプリ」後記)

『リテラ・ポプリ』(北大季刊誌)28号、13頁所収

橋本努200610

 

 

日本社会は、私たちが考えるほど、グローバルな遠心力には晒されていません。例えば「経済的自由」の国際指標では、日本は二七位。これはフィンランド(一二位)やスウェーデン(一九位)に比べても劣る順位です。また「国際競争力」(IMD)指標では、日本は二一位。この評価でも日本は、北欧諸国よりも劣位です(フィンランドは六位、スウェーデンは一四位)。とりわけ日本は、「語学力の評価」において「国際競争力」に劣っているようです(六〇位)。日本社会は、経済に大きな規制を設け、また語学力を過少評価することで、グローバル化の波に抗しているのです。

 こうした反グローバルな傾向に対して、私は、物事をグローバルに捉えようとする学生を応援していますが、しかしある人が「グローバル化を支持せよ!」と叫ぶと、私たちは反動的に、守勢に回りたくなるものです。八〇年代のアメリカ人も、守勢に回りました。アメリカ人は、国際経済の進展ととともに自国産業の劣位が明らかとなると、日本車の輸入に敵意を表し、日本車を燃やすなどのパフォーマンスをしました。グローバル化の反動として、アメリカでは大衆的なナショナリズムが蔓延し、例えばブルース・スプリングスティーンは「ボーン・イン・ザUSA」といった曲を歌って、ヒットさせています。

反動としてのナショナリズムは、今日、日本を含めたアジア諸国にも見受けられます。グローバルに考え、そして行動する力をもたなければ、私たちも八〇年代のアメリカ人と同様に、隣国に対する不公平で反動的なナショナリズムの気分に呑まれてしまうでしょう。

安易な反グローバリズムに免疫を得るためには、「経済学批判」の観点が重要です。例えば七〇年代であれば、コカ・コーラよりも生協のトマトジュースを選択することが、市場経済に批判的な市民の理想でした。経済学批判は、市場に出まわっている流行の商品を疑い、オルタナティヴな商品を探究する力を与えます。もとも今日では、生協のトマトジュースなどすでに平凡な商品でしかありませんので、私たちはさらにすぐれた選択肢を探すことが求められています。世界に視野を広げて、自身の選好形成を練り直していくこと、そのような教育理念こそ、大学教育の現場にふさわしい。現在の経済活動に批判的な市民の養成があってこそ、ナショナリズムは健全なものとなるのではないでしょうか。